澪標

オタク根暗喪女の日常と戯言、病みブログ

タナトフォビアについて

タナトフォビアとは死に対する恐怖症(ファビア)で、ギリシア神話に登場する死の神(タナトス)に由来する。

死を恐れ、死に関連したことを考えるだけで心臓がバクバクしたり、息苦しくなったり、場合によってはパニックを起こすこともある。

「自分が死んだら、どうなるんだろう」

「霊魂は存在するのか」

「輪廻転成はあるのか」

など、誰もが一度は考えたことがあると思う。

そういったことを考えることを辞められず、怯え、苦しむ精神状態が続くのがタナトフォビアである。(と私は考えている。精神科医でもなければ専門家でもないので、多少の間違いは許してほしい。あくまで私の経験則から導いた定義である)




私がタナトフォビアを発症した明確な時期は覚えていない。一番古い記憶は小学校四年生くらい、夜、布団に入っている時だ。

私の家庭は裕福でなく、小学生の間は狭い団地に住んでおり、8畳ほどのスペースに布団を引いて雑魚寝していた。その時私の隣では弟が寝ていたと思う。

目を閉じて、その日の出来事・私の思いを考えることが日課だった。


なんのきっかけかは分からないがふと、宇宙について考えたんだ。

地球が何で出来たか、宇宙がどうやって出来たか、何となく科学で解明されている。ではそれを起こしたのは誰なのか?宇宙をつくった人がいたと仮定して、その人を生んだ人は誰なのか?神がいるとして、神をつくったのは誰だ?


この時初めて私は、「無」の存在を認識した。


この世、と呼ばれる現実の始まりには「無」があった。無から有は生まれないというが、無から何か生まれていないと宇宙は、地球は、生物は今ここに存在していない。

なるほど、無か。

そうして突然、自分が無になる可能性に気がついた。

死後である。

生きていれば、いつかは死ぬ。それは避けられない。

なら死んだ後、私のこの意識は、どうなるのだろう。無になるのだろうか。無の状態であると自覚はできない。私には知覚できない状態に私は陥ることになる。

それはとてつもない恐怖だった。

死後、霊体になることや輪廻転成できるとしよう。

しかし今の私がその状態であった時のことを覚えていない以上、生まれ変わった私も覚えていない確率が高い。

私は今の状態が幸せだ。

その幸せが失われて、無になる。消えてしまう。

それがとてもこわい。

小学四年生の私は恐怖し、それは今も変わらず続いている。むしろ酷くなっている。



そもそも生まれた年にテロ事件や大地震がおき、その後も不況、大災害、国際情勢が不安定な中生きてきた私が、自分の死について考えないわけがなかった。



昔から考えることが好きで内向型の私にとって、当然の流れだった。

ずっとずっと怖くてたまらなかった。



忘れられる時もある。

友達と話してる時、大好きな舞台を見てる時、本を読む時、犬と遊んでいる時。

でも一瞬後に、自分の死を意識する。例えば1秒後に大地震が来たら、突然病に倒れたら、紛争が起きたら…

怖くて足がすくんだ。

冷水を浴びせられたように、体の芯から冷えて、心臓がバクバクと動いて、息が苦しくなる。



一生懸命生きていれば考える余裕なんかない、って言われたけど、私が一生懸命生きていないというのだろうか。私は恐怖と戦いながら眠りにつき、目覚めたことに安心し、その日を怯えながら必死で平常を装い生きてきた。一生懸命生きてる。でも考えずにいられない。



きっと多くの人には理解されない。

考えてもどうせ死ぬという結果に変わりはないのに、って呆れられる。分かってる。

でもそういう人間もいる。

1日でも長く生きていたくて、ただ死が怖くて、怯えてる人間もいるんだ。



私は私の死だけでなく、他人の死も怖い。

毎日どこかで命が失われている。それでも、世界は変わらずまわっているし、時間は進んでいく。それがとても怖い。自分が死んでも、私の大切な人が死んでも、時間は進む。本当に怖い。


私が最初に失ったのは祖母だった。次は愛犬で、次は恩師で、次は祖父だ。

つい先日まで生きていて、私と触れ合って、話していた相手が、眠ったように動かなくなった。冷たくなった。何度話しかけても動かない。怖かった。

それでも私は今生きている。

対比がひどく恐ろしく思えた。

そうして失うことがとても怖くなった。



また元来私は、依存心が高い傾向にあった。大切なもの、そうでないもの、の区別が明確だ。その存在を失われることは地面が崩れるような、とてつもない喪失であり、絶望と恐怖であった。




まとまらない文章で申し訳ない。

とりあえず私は、「無という状態」=「私が経験したことがない、知覚し得ない状態」、「死」をひどく恐れているのだ。

そしてここ数年の国際情勢の不安定さや、災害の多さによって恐怖は高まる一方で、逃げることもできず、泣くこともできない私は、もはや自宅から出ることすらままならない。




来月、私は社会人になる。会社勤めが始まれば、家から出ざるを得ない。家から出ることが怖くてたまらない私は、毎日時間が進むことに怯え、毎晩時間が止まることを願っている。

おそらくこの恐怖から解放されるとき、私は死んでいるんだと思う。

死の恐怖、無の恐怖、喪失の恐怖から解放されるために、その恐怖の対象に飛び込まざるを得ないとは、何という皮肉だろう。いっそ笑えてきた。




生まれてこなければ、こんなに苦しくなかったし怖くなかったのにね。

しかし生まれてこなければ、家族や友人、愛犬に出会い、幸せな経験もすることはなかった。

生まれたくなかったという気持ち、死にたくないという気持ち、死にたいという気持ち、生まれてきてよかったという気持ち、4つの矛盾した感情が私の中で喧嘩する。

どれが勝つのか、それは私の最期の時まで分からない。



果たして私は最期のその時、正気でいられるのだろうか。